ポスト・インターネット作品について、美術手帖2015 6月号で行われたHouxoQueと谷口暁彦の対談でにおける谷口の、以下の発言について考えていきたい。

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谷口「僕はインターネットが特別なものでなくなり、現実を構成するいち要素になってしまっても、現実とのズレや齟齬の中に、インターネット固有の場所性を見出すことができるんじゃないかなと思います。(中略)むしろ、インターネットと現実の関係が密接になったからこそ、わずかな操作でこうした両者の間の奇妙なリアリズムを生みだせているように思えます。この「間」のリアリティーがポスト・インターネットっぽさなのかなと思います。」美術手帖2015 6月号91p

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谷口暁彦は、多摩美術大学情報デザイン学科メディア芸術コース専任講師のメディアアーティストである。彼の言う、この「奇妙なリアリズム」とは一体どういったものなのか。そして、その「奇妙なリアリズム」は、どのような形でポスト・インターネット作品に現れているのだろうか。まず、別の対談で、谷口は「リアリティ」について以下のように説明している。

<aside> ▫️ 谷口:「リアリティ」って言葉をちゃんと正確に考えようと思います.「リアリティ」を辞書で調べると「現実感」という言葉が出てきます.だけどふだんの生活において,そのふだんの生活を指さして「リアルだ」とは言わないわけですよね.無意識に過ごせているわけです.じゃどういうときに,それが「リアルだね」と言うのか?  例えばそれは,本物みたいによくできたCGなんですよ.それに対して「超リアル」と言う.でも本物が出てくると,べつに普通なんですよね(笑).なぜふだんの,現実の生活に対して「リアル」と言わないのか.これは仮説ですが,ふだんの現実はあまりにも無意識に生活できるから,それは無意識に動かせるこの手足とか指のようなもので,全然意識に上ってこない.たとえば,家を出るときに鍵かけたかどうかってけっこう忘れるじゃないですか.てことは,もう意識せずに行なっちゃってるわけですよ.鍵をかけるって,家のドア閉めて,鍵を持って,回す……ってけっこう複雑な動作なんだけれども,繰り返していくうちに意識に上ってこなくなっちゃう.それくらい,ふだんの生活を送るっていうのは自明のことで,それは本来リアル(現実)なんだけれども,全然意識には上ってこない.  じゃあ,その自明のものが意識に上ってくるときっていうのはどういうときか? 自分の身体で例えてみると,しびれとかケガをしたときではないか.腕を下にして寝ちゃったときに,すっごいしびれて,朝起きたら全然動かないことがありますよね.これがすごい気持ち悪いなと思って.こういうときって全然自分の腕のように感じられないわけですよね.他人の腕だったりとか,なんか肉のかたまりのように感じる.ケガしてギプスを着けても同じようなことが感じられると思う.この他人の腕のように感じられたりとか,肉のかたまりとして感じられる腕っていうのはなにかといったら,これは客観的事実だと思うんですね.つまり,ふだんちゃんと動くときは「私の腕」として経験するから,それは主観的経験ですよね.〈私〉にだけ見えている.一方,それがしびれてうまく動かないとき,他人の腕のように感じる.(中略) 思い通りに身体が動かせない状態に常にある人物といったらやっぱり赤ん坊だと思うんですよね.それこそ,全身がしびれているみたいに全然思い通りに動かない.そこから,どこまでが自分でどこまでが世界かというのを統合し峻別していって自我を形成するといわれている.自転車に乗れるようになることも同じですよね.それによって「自転車に乗れる私」が形成される.で,〈私〉がいなくてもこの世界が存在する確からしさというのは,鍵かけが慣れてくればもう意識しなくなるということのように,どんどん自明なものとしてもう一回回収されうる.だけど,しびれるとか,事故とかケガとか,「この日に限って鍵が合わない」とかってことが起きると,もう一度それが取り戻されることがある.まとめると,「リアリティ」とは「この私が死んでも世界が存在しつづける」という確からしさで,それは,調停され自明になっていく.だけど,しびれとかケガみたいなことがその確からしさの再発見の契機になっている.  それをインターネットにつなげて言い直せば,「インターネット・リアリティ」とは,私が見ていなくても,あるいはログインしていなくても,そこにインターネットが存在して,あるいはつながっているというような確からしさのことなんじゃないか,そして,それに出会う契機があって,そこに「インターネット・リアリティ」を見つけるんじゃないかなと. (インターネット・リアリティ研究会 「座談会:インターネット・リアリティとは?」https://www.ntticc.or.jp/ja/feature/2012/Internet_Reality/document1_j.html

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谷口は、客観的な「リアル」は自明になるにつれ意識に上がりにくくなっていく。しかし、しびれやケガのような、「全然自分の腕のように感じられない」、あるいは全然自分思い通りに動かない、という主観的な意識が脅かされたときに「リアリティ」が見つけられる。「これは仮説ですが」という前置きをおこなっているが、この身体のリアリティ、という問題については、香山リカも同様の指摘をしている。香山は、赤坂真理の連作短編集 『コーリング』引いて、以下のように言及する。

<aside> ▫️ 「ただお互いのからだに傷をつけ、苦痛を与えることだけが、彼らに「私は……生きている」というかすかな実感を与えるのだ。それ以外のときは、仕事をしていてもデートをしていてもふつうのセックスをしていても、「いま私はこれをしている」という実感を持つことができない。」 (『映像と身体 新しいアレンジメントに向けて』,「身体—リアルとイメージとがせめぎ合う場」45p)

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たしかに、私たちはその身体を感じるために、しびれやケガ、あるいは苦痛が与えられることによって、実感—「リアリティ」を感じることができるのである。1番初めの谷口のインタビューに戻れば、こういったしびれやケガが「現実とのズレや齟齬」であり、そこで初めてリアルとインターネットの間の「奇妙なリアティ」が生じるのである。 実際に、こうした「ズレや齟齬」を利用して、メディウムの固有性や本質を探る、という行為はメディアアートにおいてはよく見られる行為である。久保田晃弘は、『メディアアート原論』の中で、以下のように説明する。

<aside> ▫️ 「ビデオ・アートのブラウン管のあとにも、レコードのスクラッチだったり、刀根康尚さんのようなCDを傷 つけるアプローチだったり、常にある種のエラーだったり、グリッチのような逸脱がメディアの本質を暴き出します。 そうしたやり方は、何か反社会的であったり奇をてらうということではなくて、メディアとは何かということを本質的に問う、正攻法、正統的な方法だと思います。」(『メディア・アート原論 あなたは、いったい何を探し求めているのか?』久保田晃弘、畠中実 p26,27)

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谷口の「ズレや齟齬」からメディアを問う、というやり方は、メディアアートの中では正攻法であろう。しかし、ではインターネットとリアルの間に浮かび上がる「奇妙なリアリズム」は、私たちにどういった感覚をもたらすのか。この「奇妙」さ、というのは現実が揺らぐことであり、まさしく主体的な認識が脅かされ、「リアリティ」が意識に登ってきたときのことであろう。「異化」の概念に近いかもしれない。実際に、情報学者のドミニク・チェンは、「バグ」の瞬間を「奇妙なクオリア」、というふうに表現している。

<aside> ▫️ 「この過程で、幼心に不思議に思うことがあった。プログラムでは一文字でも書き間違いがあると全体が停止するが、意図していない挙動が生まれる。このエラーは一般的に「バグ」と呼ばれるが、ゲームでも時々発生し、画面が「固まっ」たり、通常ではありえない状態になったりする。前者のパターンでゲームが「バグ」ると、それまでの進行が一瞬にして消えてしまい、とてつもない疲労感を味わう。同時にまるで世界そのものにヒビが入ったかのような、奇妙なクオリアが生じる。現実を支える地面がバラバラに崩壊してしまう恐怖と同時に、その裏側に潜む妖艶な別世界の入り口が開く興奮も覚えた。」(ドミニク・チェン『未来をつくる言葉 わかりあえなさをつなぐために』36p-37p)

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「奇妙なクオリア」から生じる「恐怖」と「妖艶さ」。これはざまざまな場面で私たちにも覚えがあるだろう。なぜか、画質の荒い、ブレた映像に奇妙な良さを感じたりする。あるいは、途切れ途切れのラジオ放送の音に、奇妙な質感を感じたりする。それはなぜ生まれるのだろうか。こういった「バグ」、「ズレ」がなぜ嫌悪感と愛好のアンビバレントな感情をもたらすのだろうか。鷲田清一は、「じぶんの内部と外部、〈わたし〉と〈わたしでないもの〉との境界をあいまいにするもの、境目を不分明にするもの」が、私たちに嫌悪感を覚えさせる、と指摘した上で、それらの魅力について言及する。

<aside> ▫️ それはたぶん、**それらの存在を認めれば、意味の差異、意味の秩序というものが成り立たなくなるからだ。**それは秩序の根幹にかかわる。ひとは連続的な存在のなかに〈意味〉という不連続の切れ目を入れて、差異の体系として秩序をかたちづくる。(中略)いろんな区切りを世界のうちに設定していき、そうした意味の体系によってじぶんたちの生活に一定の安定した形を与えているのだ。だからそれが崩れる気配にはとても敏感である。それを防衛するために、それを少しでもあいまいにするもの、ないがしろにするもの、侵犯するものを、どんどん摘発していく。それがさまざまの禁止事項なのだ。

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<aside> ▫️  でもやっかいなのは、ぼくらにとって**そういう禁止されたものが、ほんとはぼくらをもっとも深く誘惑するものでもあるということだ。崩壊の予感、それにぞっとしながら魅惑される......。**というもの、もともと境界というのがぼくらの存在に人為的に挿入されたものにすぎないという思いが、どこかにあるからだ。(鷲田清一『ちぐはぐな身体(からだ): ファッションってなに?』)

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私たちはその不安定さ、リアル、あるいは意味の秩序が侵され、失われていくその中に両義的な感情を抱いてしまう。そしてそれは、作品、という形で、奇妙な質感やリアリティとして現前し、鑑賞体験を形作っていくのである。