「ズレ」を表出させる作品について、どのような分類の仕方ができるだろうか。まず、インターネット・リアリティ研究会、座談会「『ポスト・インターネット』を考える(β)」での、水野勝仁の発言を見ていく。
<aside> ▫️ 水野 :まずは「ポスト・インターネット」とは何のことなのか? 僕が考えはじめたのもつい最近のことですが,今まではリアルな世界からインターネットの世界へと,僕たちの持っている感覚を移そうとしていました.これは,インターネットだけの話ではなくて,インターフェイスなども,例えば「デスクトップ(机の上)」のような「メタファー」を使って,現実からコンピュータ画面の中に持っていった仕組みだったと思います.インターネットにおいても,ウェブ作成ソフトが「Internet Builder」とか呼ばれるように「メタファー」を使って,現実にあるものをどんどんインターネットのほうに移そうとしていた.技術的な制限もあって,そのすべてがうまくいったわけではないのですが,言葉とか頭の中では可能な限り移そうとしていたわけです. ところが気がついたら,インターネットの中に存在するものが,あるひとつのリアルな世界から移されたものではなくて,それ自体がリアリティを持つようになってしまった.そして,多くの人がそのことに気づきはじめたり,リアルなネットに"住んでいる"かのような状態になってくると,今度はインターネットからリアルのほうに,何かを"戻そう"というか"移そう"とするような流れが出てくる.その時には,いわゆる(先のデスクトップのような)「メタファー」は使えない.リアルとインターネットが同等の存在だと意識しはじめた中で,この二つのあいだを手探り状態で行き来しているのが,今の状況なのではないか.これが,まず最初に僕が思っている「ポスト・インターネット」の状況です. そして,いわゆる「インターネット・リアリティ」というものが,リアルな世界からネットの世界への"移行"だとすれば,「ポスト・インターネット」では,「リアル⇄インターネット」という双方向の矢印(⇄)でリアルとネットとが結ばれている.さらに,この二つの世界は,常にSYNC(同期)しようとしている.しかし,リアルも常に動いているし,インターネットも常に動いているので,同期しようとしてもどこかにズレが生じてきている.それが,今現在の状態なのではないかというのが,まず一番最初に指摘しておきたいことです.
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つまり、現実をインターネットに移すことでインターネットにリアリティが生まれ、今度はインターネットからリアルへ何かを「移そう」とするような流れが起きる。しかしリアルもインターネットも常に動いているので,同期しようとしてもどこかにズレがある、というのが現状である。つまり、この①「現実⇨インターネット」、②「インターネット→現実」、③「インターネット⇄現実」、という三つの分類ができる、といえるのではないか。
では、まず、①の「現実⇨インターネット」についての作品について考えたい。 美術手帖2015 6月号で行われたHouxoQueと谷口暁彦の対談では、以下のような発言がある。
<aside> ▫️ HouxoQue「僕はいま、インターネットを都市空間として見立てるということによって、ストリートと同じ運動が再現できると思っています。仮想空間としてのインターネットであれば、グラフィティは手を出せない領域だった。Googleによって座標を指し示された瞬間にそれが都市になり、ボミング可能な対象になったんです。ディスプレイの中にリアリティーを感じるようになったからこそ、アタック可能になった。」
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現実とインターネット空間が接続されることにより、インターネット空間が「都市」となり、「ボミング可能な対象」となった、という表現には様々な示唆がある。上記の水野の発言に即して言えば、「インターネット」の空間がGoogleの示した座標によって「メタファー」として接続された、ということであろう。そして「ボミング可能な対象」となった。都市空間と接続されたインターネット空間を「ボミング」した例として、Simon Weckertの『GOOGLE MAPS HACKS』があるだろう。『Google Maps Hacks』は、小さなカートに99台の中古スマホをのせて運び、Googleマップ上に現実には存在しない交通渋滞を発生させ、その結果渋滞を避けるために車を他のルートに誘導させる、というパフォーマンスである。この作品は、個人のリアルタイムデータを収集し、それをインターネット空間に表示させ、それによって現実にいる人々のルートを左右させる、というGoogleマップの強大なシステムに対し、現実とインターネット空間の結びつきのズレを、そのリアルタイムデータの取集方法にバグを生じさせることによって、顕在化させている。まさしく、「ボミング」し、「現実→インターネット」方向のズレを表出させている。
Google Maps Hacks - 文化庁メディア芸術祭 - JAPAN MEDIA ARTS FESTIVAL
②の「インターネット→現実」については、ARAM BARTHOLLの『MAP』が挙げられる。この作品は、現実から仮想空間に移された「メタファー」を、「メタファー」のまま現実空間に落とし込む、という作品である。具体的には、Googleマップで使われる、目的地などを示す赤いピンのマークをそのまま10mほどの巨大なスケールで現実空間に設置している。 この作品に出会った時、私たちはどのようにそれを許容するのだろうか。以下、一つの例として挙げる。
<aside> ▫️ 「誰もが知っているであろうグーグル地図で検索をかけた時に出てくる赤いマークを高さ 10mほどの実際の立体物にして、特定の場所に展示する作品を作っている。筆者も、デュッセルドルフ郊外を車で移動している時に偶然にも目にしてしまった。 田舎のなんの変哲もない公道の脇に巨大なマークが設置されていたのである。あまりに突然だったので撮影する間もなかったが、一般的な場所にこのようなものが設置されていること自体、ユニークというほかない」『ドイツにおける現代絵画について : 皮肉・ユーモア ・政治的社会的表現』詫摩 昭人
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「設置されていること自体、ユニークというほかない」という言い方は、一見素朴な印象でしかないように思うが、実際に受容する態度として、とても普遍的なものなのかもしれない。インターネット空間から現実に「使えない」と言われた「メタファー」を、「メタファー」のまま落とし込む。それは強烈な違和感と共に、見慣れたものが異化され、現実から離れたテクスチャ——新しい知覚をもたらす。
③の「インターネット⇄現実」については、山内祥太の『あつまるな!やまひょうと森』が挙げられる。以下、美術手帖より作品の概要である。
<aside> ▫️ 山内祥太の《あつまるな!やまひょうの森》を紹介したい。 新型コロナウイルス感染症の拡大に伴い、パソコンを介して遠隔でコミュニケーションをする機会がより多くなった現在。しかし、そうしたバーチャルの体験は完全にリアルの代替となるものではないと山内は考えた。本作は、任天堂のゲーム『あつまれ どうぶつの森』(2020)を模した画面を操作しながら、実際の展示空間のパフォーマーとなった山内本人を動かすことができる作品だ。 かわいらしいゲーム画面と、その場にいる生身の人間の動きが連動することで、ゲームが本質的に持つ「操る、操られる」という権力関係や、現実にバーチャル空間の動きを持ち込むことの不気味さが表現された。会場を訪れた人が否応なくその観客になることで、現実と仮想における身体の位相の在り処を考えさせる作品となっている。 (美術手帖「見逃したくない「第25回⽂化庁メディア芸術祭 受賞作品展」。メディア芸術の可能性を改めて考える」https://bijutsutecho.com/magazine/news/promotion/26076)
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ゲーム(インターネット)空間と現実空間を対比させることで、現実の身体性と「メタファー」を比較させ、そのある種の気持ち悪さを含んだ違和感を浮き彫りにしている。それはまさしく、現実とインターネット空間の双方向への「ズレ」である。また、作者は作品について以下のようにコメントしている。
<aside> ▫️ あらゆるゲーム体験は“暴力性”と結びつき、人間の欲望を刺激します。可愛いキャラクターが動く喜びや親しみと言った感情と並行して私自身のパフォーマンスから滲み出る不気味さや残酷さと言った感情を全て呼び出すことで、人間の欲望を映し出せると考えました。 今作はゲーム空間と現実空間の差異を描くだけではなく、画面の向こうから私の実存として反逆があります。加速していくテクノロジーに対してただ受動的になるのではなく、人間の知性に主導権があることを絶えず忘れてはいけません。 (https://eizo100.jp/video/33695/#)
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人間と記号的なキャラクター、現実空間とゲーム空間の対比から立ち上がる「私の実存」、それはまさしく谷口の指摘するリアリティについての問題提起である(詳しくは奇妙なリアリズム——ズレと身体 を参照)。